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文学のまち松山

俳句

俳都松山は、正岡子規をはじめ、著名な俳人を輩出し、ゆかりの深い俳人も数多く存在します。
まさに松山が俳句の里とよばれる由縁といえます。
その証とも言えるように、松山には400基以上に及ぶ文学碑が存在します。

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写真:正岡子規 正岡子規
 慶応3年(1867) ―
    明治35年(1902)

松山に生まれ、松山に育った正岡子規。彼は15歳のとき東京に出て、その後、34歳 という短い命を終えるまで、近代文学の歴史に消えることのない輝かしい功績を刻み続けました。

最後に帰松した年に書かれた随筆「養痾 雑記」の一編に「故郷」という文章があります。書き出しに「世に故郷程こひしきはあらじ。花にも月にも喜びにも悲みにも先づ思ひ出でられるるは故郷なり」とあり、故郷はどんな時も懐かしく、帰りたい、住んでみたいと 思っていると、その恋しい気持ちが切々と綴られています。子規は、明治35年9月19日、結核のため、34歳と11ヶ月あまりの生涯を閉じました。

写真:種田山頭火 種田山頭火
 明治15年(1882) ―
    昭和15年(1940)

放浪の俳人として知られる山頭火。九州路、四国路、山陽、山陰道を歩き続けた彼が、あてのない旅に出たのは43歳のときです。 そして、最後の居住地としてたどり着いたのが、松山でした。

山頭火は道後の湯をこよなく愛しました。 一草庵から道後の湯は、わずか20分ということもあり、山頭火は足繁く通ったようです。 しかし、松山での暮らしも1年足らず。脳溢血で破天荒な57年の人生の幕を閉じました。

写真:高浜虚子 高浜虚子
 明治7年(1874) ―
    昭和34年(1959)

正岡子規の高弟としてその遺志を受け継ぎ、日本俳壇の隆盛に大きく貢献した虚子は、松山藩士池内庄四郎政忠の六男(うち2人は早世)として松山市長町新町(現湊町)に明治7年に生まれました。

8歳の時、祖母の実家高浜家を継ぎ、明治21年伊予尋常中学校に入学しました。1歳年上の碧梧桐と同級になり、 彼を介して子規を知り、明治24年子規から虚子の号を受けます。
明治31年、松山で極堂が発行していた俳誌「ほとゝぎす」を東京に移転し「ホトトギス」を経営します。のちに碧梧桐の「新傾向」に反対し、「守旧派」として晩年まで句作を続けました。

写真:河東碧梧桐 河東碧梧桐
 明治6年(1873) ―
    昭和12年(1937)

松山市千舟町に松山藩士河東坤(号静渓)の五男として生まれました。本名秉五郎へいごろう。明治20年、伊予尋常中学校に入学。同級生には高浜虚子がいました。

明治22年帰省した子規からベースボールを教わります。そして、このことががきっかけとなり、碧梧桐は子規から俳句を学ぶことになります。
明治38年頃から「新傾向」俳句をとなえ、全国遍歴の旅にでてその傾向をさらに強めます。その時の紀行文が「三千里」です。

やがて、「守旧派」の虚子と対立するようになりました。

写真:中村草田男 中村草田男
 明治34年(1901) ―
    昭和58年(1983)

本名清一郎。明治34年7月24日、清国(中国)福建省廈門アモイの日本領事館で、父修(当時清国領事)の長男として生まれました。 3歳のとき母と郷里松山に帰ります。

松山中学、松山高等学校を経て、大正14年に東大独文科に入学その後、水原秋桜子の勧めで「ホトトギス」に投句。

また、草田男の主宰する月刊俳誌「万緑」の名は、新しい季語として定着しました。

写真:栗田樗堂 栗田樗堂
 寛延2年(1749) ―
    文化11年(1814)

酒造業の三男として松山に生まれ、松山藩の町方大年寄を長きに渡り勤めるなど人望のあった樗堂は、小林一茶とも交友がありました。まだ無名であった一茶は樗堂のもとを2度訪ねており、一茶の作風に大きな影響を与えたといわれています。

寛政12年(1800)、松山城の西、味酒の地に余生を風雅三昧に暮らそうと庵を建て、その年の干支と近くにあった祠の名に因んで「庚申庵」と名付けました。

晩年は、安芸国御手洗島で隠居生活を送り66歳の生涯を閉じました。

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